【いつか使える】三国志から生まれたことわざ・故事成語7選【第1弾】

2020年10月21日

今から約1800年前の中国は、群雄割拠の時代を経て、魏・呉・蜀の3つの国が中国統一を目指してしのぎを削る「三国時代」と呼ばれる時代でした。
その時代の出来事や人物を記した歴史書『三国志』、そしてそれを元にした小説『三国志演義』は、そのドラマ性から、中国だけでなく日本を始め世界中で長きにわたって読まれ続けています。

そのため、『三国志』から生まれた、また有名になった故事成語やことわざもたくさんあります。
今回からは、その中でもとくに有名な言葉を3回にわたって紹介したいと思います。

三国志から生まれたことわざ・故事成語シリーズ

第1弾(この記事) / 第2弾 / 第3弾

画餅(絵に描いた餅)

画餅がべい」とは絵に描かれたモチのこと。当然、絵なので実際には食べられません。
そこから、「実際には何の役にも立たない事」「本物でなければ何の意味もない事」という意味で使われる言葉です。
「実現する見込みのない事」という意味でも使われ、「絵に描いた餅」とも言われます。また、計画倒れに終わることを「画餅に帰す」と言ったりもします。

この言葉の語源は、の二代皇帝・曹叡そうえいの言葉とされています。
彼の家臣の中に、お互いに格付けし合って実態以上に名声(評判)を得ていたグループがいました。ある日、彼はそのグループのメンバーを全員クビにしてしまい、

「人を登用する時は、評判だけで選んではいけない。評判というものは絵に描いた餅のようなもので、食べることはできないからだ」

と言ったことに基づいた言葉なのです。

白眉

白眉はくび」とは字の通り白い眉毛の事ですが、「ある集団の中で、最も優れている人や物」という意味で使われます。

この言葉の基となったのは、しょくの皇帝・劉備りゅうびの家臣である馬良ばりょう
馬良は5人兄弟の四男で、兄弟全員が秀才だという評判でしたが、その中でも馬良が一際優れていました。
そして馬良の眉毛が白かったので、そこから「白眉」という言葉が生まれたのです。

読書百遍義自ずから見る

読書百遍義自ずから見るどくしょひゃっぺんおのずからあらわる」とは、「どんなに難しい本でも、繰り返し読んでいると意味が自然とわかるようになるものだ」ということ。
ここでの「見る」は「あらわる」と読みます。

魏の学者董遇とうぐうは、無口で弟子にも積極的にものを教えるということはしませんでした。
その代わりに、「読書百遍義自ずから見る」と弟子にアドバイスしていました。ただ多くの本を読めばいいということではなく、一つの本を何度もを熟読することに意味があるのだという教えです。

髀肉の嘆

髀肉ひにくとは、ふとももの内側についた肉のこと。「髀肉の嘆ひにくのたん」というのは、「活躍して有名になるチャンスがなく、無駄に日々を過ごすしかないのを嘆くこと」を言います。「髀肉をかこつ」「髀肉の嘆をかこつ」という言い方もします。

後に蜀の皇帝となる劉備が、まだ自分の国を持っていなかった頃のこと。
ライバルの曹操そうそうに負けた劉備は、同族の劉表りゅうひょうの下に逃げ込みます。劉表は敵対する曹操のとの戦に備えて、劉備に国境の警備を任せることにしました。
しかし曹操はいっこうに攻め込んでこず、戦のないまま時は過ぎていきます。

5年ほど経ったある日、劉表はトイレから戻って来た劉備が泣いているのを見て、わけを尋ねます。
すると劉備は、

「戦場にいた時は馬に乗りっぱなしだったので、ふとももにぜい肉がつくことはありませんでしたが、
今は馬に乗らないので、ぜい肉がついてしまいました。
月日が流れ、老いも迫っているのに、何の功績も立てられないのが悲しいのです」

と答えたそうです。

ちなみに、劉備が戦いの日々に戻ったのは、その3年後のことです。

呉下の阿蒙

呉下の阿蒙ごかのあもう」とは、「いつまでも進歩のない人」という意味で使われる言葉です。「呉下の阿蒙にあらず」という言い方もあり、こちらは「立派に成長した、進歩のある人」という意味になります。
呉下はの国の地、阿蒙は呂蒙りょもうという人が蒙ちゃんと呼ばれている感じです。

呉の武将だった呂蒙は、戦は強かったものの、あまり学がありませんでした。そこで呉の王の孫権そんけんは、呂蒙に勉強するよう助言しました。
呂蒙は孫権の言う通りに、勉強のために読書を始めます。

しばらくして、呂蒙は友人で参謀をしている魯粛ろしゅくと会い、話をする事になります。
魯粛は、呂蒙がいつの間にか高い教養と多くの知識をつけていたことに驚き、「君はもう、呉にいた頃の昔の蒙ちゃんじゃないんだな」と感心したといいます。

士別れて三日、刮目して相待す
(男子三日会わざれば刮目して見よ)

士別れて三日、刮目して相待すしわかれてみっか、かつもくしてあいじす」とは、「日々鍛錬している者は、三日も会わなければ見違えるほどに変わっているものだ」という意味。そこから「物事を見る時は、先入観にとらわれず常に新しいものとして見なさい」という意味の言葉としても使われます。
日本語風に「男子三日会わざれば刮目して見よ」とも言います。刮目とは、目をこすって良く見ること。

上記の呂蒙の話で、魯粛に感心された呂蒙が返した言葉です。
この後の呂蒙は、まさにこの言葉の通りに有能な武将となり、劉備の最強の家臣である関羽かんうを倒すという大活躍を見せることになります。

鶏肋

鶏肋けいろく」は、鶏の肋骨のこと。つまり鶏ガラです。
鶏ガラはスープのダシに使うのが本来の用途ですが、昔はしゃぶって食べる事もありました。とは言え、肉はちょっとしかついていないのでお腹の足しにはなりません。
そこから、「大して役には立たないが、捨てるにはもったいないもの」を「鶏肋」と言うようになりました。

魏の王・曹操が使ったことで広まった言葉だとされています。

漢中という地域の領有権を巡って、劉備と激しく争っていた時のこと。なかなか勝負がつかず、曹操は戦を続けるべきかどうか悩んでいました。
そんなある日、曹操は食事中に「鶏肋、鶏肋……」と無意識につぶやきます。するとそれを聞いた家臣が何かの命令と勘違いしたのか、全軍に伝わってしまいます。もちろん、それがなんの命令なのか、誰にもわかりません。
しかし、側近の楊修ようしゅうだけはその意味を理解し、「つまり、漢中は惜しいが、必死に守るところでもない、もう撤退すべきというお考えなんでしょう」と、いそいそと撤退の準備を始めたのです。その言葉の通り、曹操軍は撤退することになりました。

ちなみに、楊修はその後、軍を勝手に動かした罪で処刑されてしまいました。以前から、楊修は曹操の真意を見抜くことが得意で、曹操は彼を内心恐れていたそうです。

苦肉の策

苦肉の策くにくのさく」という言葉は、今では「苦しまぎれに考えた手段」という意味で使われますが、それは「苦」という文字から連想されたものです。
本来は、「自分や味方をわざと痛めつけることで敵をだます作戦」のことを言いました。「よほどの理由がない限り、人間は自分や味方を傷つけることはしないはず」という心理を逆手に取るわけです。

『三国志演義』において、孫権の家臣である黄蓋こうがいが行った作戦が有名です。

映画『レッドクリフ』の題材にもなった、赤壁の戦いという曹操軍との一大決戦の時のお話。
曹操軍の大艦隊を前に、孫権軍の参謀・周瑜しゅうゆは火攻めで戦うことにしましたが、火をつけるには敵陣深く突っ込まないといけません。そこで、周瑜は黄蓋と相談して、「苦肉の策」を実行します。

まず、作戦会議の席で、周瑜と黄蓋がわざと大ゲンカをします。バカにされて怒ったふりをした周瑜は、黄蓋に百叩きの刑を言い渡します。もちろん、演技だとばれないように、黄蓋は実際に何度も背中を叩かれます。
傷だらけになった黄蓋は、曹操に「孫権軍を裏切ってそちらの味方になりたい」と、手紙を出します。一連の騒動はスパイを通じて曹操の耳にも入っており、曹操はこれを信じました

そして決戦当日、黄蓋はまんまと曹操軍の艦隊に近づき、火をつけた船を突っ込ませます。火はみるみるうちに燃え広がり、曹操軍の艦隊は大炎上し壊滅。孫権軍は逆転勝利をおさめたのでした。