ファミコン:代名詞となった伝説のゲーム機

今回は、1983年(昭和58年)に任天堂から発売されたゲーム機、ファミコンファミリーコンピュータ)についてです。

新しい娯楽として、コンピューターゲームが浸透していった頃に生まれたファミコンは大人気を博し、後にゲーム機の代名詞ともなりました。
そして40年近く経った現在でも、レトロゲーム機ながら未だ現役の感すらあるファミコンは、どのようにしてその地位を獲得していったのでしょうか。

ファミコンが生まれた1983年当時のゲーム事情

1983年当時の日本は、1978年(昭和53年)に登場した『スペースインベーダー』のブームの影響もあり、日本全国でゲームセンターが次々と生まれていた頃です。

家庭用ゲーム機も、アメリカでのヒットを受けて1975年(昭和50年)頃から輸入・国産共に複数のメーカーから発売されていました。
特によく売れていたのは、1981年発売の『カセットビジョン』でした。

ファミコンの発売元である任天堂も、すでにゲーム市場に参入していました。
家庭用ゲーム機では今一つでしたが、1980年(昭和55年)から展開していた『ゲーム&ウォッチ』という携帯LSIゲームシリーズは大人気となっていました。

つまり、ファミコンは、日本のゲーム市場において先駆者ではなく、むしろ後発組だったのです。

ファミコンが国民的ゲーム機となった3つの理由

そんなライバルがひしめく日本のゲーム市場に飛び込んで行ったファミコンですが、発売直後こそいまいちだったものの、次第に売り上げを伸ばしていき、2年ほどで200万台を売り上げる人気商品となりました。
そして、やがては日本国民に「家庭用ゲーム機=ファミコン」という認識を持たせるほどの国民的ゲーム機としての地位を確立していきました。

ファミコンがそこまでの地位に上り詰めた理由としては、以下の3つが挙げられます。

ゲームに特化することで、高性能かつ良心的な価格を実現

当時のゲーム機には、簡単なパソコンの機能を有した「ホビーパソコン」もあったのですが、ファミコンはその機能を搭載せず、ゲーム機しての機能に特化。
さらに、コントローラーを直付けにするなどコストカットを徹底し、14,800円という当時のゲーム機としても比較的低価格での販売となりました。

それでいて、ファミコンは当時としては高性能なゲーム機でもありました。
特にアクションゲームなどでは圧倒的な性能を発揮。ファミコンでは当初から『ドンキーコング』など、ゲームセンターで人気だったタイトルを、ほぼ遜色のない形で移植して発売していましたが、当時の他のゲーム機ではとても真似のできない事でした。

圧倒的なソフトのラインナップ

いくら性能が良くても、ソフトがなければゲーム機はただの箱。ゲーム機が売れるには、ソフトのラインナップの充実が重要となります。
「遊びたいゲームがあるかどうか」がゲーム機購入の一番の動機ですし、ソフトの数が多いほど幅広い消費者のニーズに答えることができるからです。

しかし、当時は基本的にゲーム機のメーカーが単独でソフトの開発・販売も行っており、供給されるソフトの数にも限界がありました。
任天堂自身も、当初は自社のみでソフトの供給をまかなう予定でした。その背景には、当時アメリカで起こっていた「アタリショック」の再来への警戒心があったのです。

用語解説

アタリショック
アメリカで1982年~85年にかけて起こった、大規模な家庭用ゲーム機市場の崩壊のこと。
ゲーム市場にあらゆるメーカーが参入し、粗悪なソフトが粗製濫造され続けた結果、消費者がゲーム機そのものに対して失望したことが原因とされる。

一方で、次第に人気が出てきたファミコンに目を付けた複数の企業から、サードパーティー(ゲームソフトメーカー)としての参入の希望が相次でいました。
そのため、任天堂はソフト発売に一定のルール(発売前の内容チェック、年単位でのソフト発売本数制限など)を課すことでこれを容認。
その結果、粗悪なソフトや海賊版などの発生を一定程度防ぎつつ、質の高いソフトを大量に市場に出すことに成功、他のゲーム機と比べても圧倒的に充実したソフトのラインナップを揃えることに成功したのです。

「子供たちのコミュニケーションツール」になれたこと

ファミコンを国民的ゲーム機たらしめた最大の理由は、やはり主な顧客層である子供たちがこぞって買い求め、彼らにとってただの遊具を超えたコミュニケーションツールとなったことにありました。

そうなるには、当時の社会情勢も関係してきます。

1980年代は、いわゆる「ツッパリ」と呼ばれる不良文化がブームを起こした時期でもありました。
その不良の一部が、ゲームセンターを根城とし、子供たちを含む来店客からカツアゲ(恐喝)を働く事件が続発。
その結果、世間に「ゲームセンターは不良がたむろする危険な場所」という認識が広がり、小中学校で校則として、生徒のゲーセン出入りが禁止される流れになりました。
ゲーセンから締め出され、最新のコンピューターゲームに触れることができなくなった子供たちは、代替として家庭用ゲーム機、ことにゲーセンと同レベルのゲームができるファミコンを求めるようになったわけです。

また、1980年代は都市開発が進み、子供たちの遊び場が次第に少なくなっていった時代でもあります。友達の家に数人が集まって遊ぶということも増えてきました。
そこでファミコンを初体験したという子も多くいたでしょう(わたくしもその一人でした)。
子供たちのネットワークを介して、ファミコンの知名度が上がっていったのも、ヒットの要因の一つだと考えられます。

その過程で、子供たちにとってファミコンが共通の話題になったり、自分が持っていないソフト同士を貸し借りするなどのコミュニケーションも生まれました。
そのコミュニケーションの輪に入るために、ファミコンを求める子供がさらに増えていったのです。

そしてファミコンはゲーム機の代名詞となった

1985年に(昭和60年)に発売された『スーパーマリオブラザーズ』は社会現象ともいえる大ヒットを記録。
これによって、ファミコンだけでなく家庭用ゲーム機自体の認知度が一気に引き上げられることになります。

そして、すでにファミコンが家庭用ゲーム機として圧倒的なシェアを誇っていたため、ゲームに疎い人たちは「家庭用ゲーム機=ファミコン」と認識、家庭用ゲーム機を片っ端から「ファミコン」と呼ぶようになります。
この傾向は、少なくとも10年以上は続いていました。1994年(平成6年)に発売された『プレイステーション』が「ソニーのファミコン」と呼ばれていたのも、ウソのような本当の話です。

ファミコンのその後

ファミコンはその後、数年にわたってトップシェアを守り続けました。
1987年(昭和62年)に『PCエンジン』、1987年(昭和63年)に『メガドライブ』という強力なライバルが現れた後もそれが揺るがなかったのは、やはり圧倒的なソフトのラインナップゆえでしょう。

その後、1990年(平成2年)に後継機となる『スーパーファミコン』が発売されると、そちらにシェアを引き継ぐ形で徐々に売り上げが低下していきます。
しかし人気は根強く、1993年(平成5年)には接続方式を新しくした新型を発売。
その翌年にソフトの供給は止まりましたが、中古ゲーム屋で昔のソフトが容易に手に入ることもあり、ファミコン本体はその後も細々と売れ続けていきます。

結局、ファミコンの製造が終了したのは、発売から20年経った2003年(平成15年)のことでした。
気が付けば日本だけでも1600万台以上売れ、対応ソフトも1200種類以上となりました。

しかし、2020年(令和2年)現在でも、ファミコンは決して過去のものとなってはいません。
一部のソフトは『ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online』で、オンライン経由でプレイできますし、ファミコンの互換機も複数の機種が発売されています。対応ソフトも、今なお中古ショップやフリマアプリなどで取引されています。
その気になれば、ファミコンソフトで遊ぶ機会は、いくらでもあるのです。

そしてこれからも、ファミコンは永遠に語り継がれ、そして遊び継がれていくのでしょう。