【いつか使える】三国志から生まれたことわざ・故事成語6選【第3弾】

三国志』から生まれた、また有名になった故事成語やことわざを紹介を紹介する記事の第3弾。
今回は、三国志そのもののエピソードではないですが、三国時代やその前後に活躍した人にちなんだ故事成語を6つ集めました。

三国志から生まれたことわざ・故事成語シリーズ

第1弾 / 第2弾 / 第3弾(この記事)

登竜門

登竜門とうりゅうもん」とは、立身出世や成功のために超えなければならない関門のたとえとして使われる言葉です。ここで言う関門とは、例えば採用試験や審査、作家や芸能人などの場合は賞の受賞などが挙げられるでしょう。

「登竜門」は門そのものを指す言葉ではなく、「竜門に登る」ということを表し、もともとは成功のための関門を突破するという意味の言葉でした。
「竜門」とは、黄河の上流、竜門山に流れる急流のこと。その下には多くの鯉が集まり、急流を登ろうとしますが、みんな登り切れずに落っこちていきます。しかし、もし竜門を登り切った鯉がいたなら、その鯉は竜になれるという伝説がありました。
日本ではこの伝説から「鯉の滝登り」という言葉が生まれ、また5月5日に鯉のぼりを揚げる風習も生まれています。

三国時代の少し前に活躍した李膺りようという官僚が、「登竜門」の語源とされています。
彼は政治の腐敗に怒り、これを正そうとしたこともある公明正大な人物で、官僚としての実力もある評判の高い人物。若い官僚にとって、そんな李膺に才能を認められるということは、将来の出世が約束された事と同じ意味を持っていました。
そのため、李膺に認められた人のことを、上記の「竜門」の伝説になぞらえ、「竜門に登った」と表現したのだそうです。

月旦評

月旦げったんとは毎月1日のことですが、「月旦評げったんひょう」というと、人物評をすること、品定めを行うことという意味になります。

後漢ごかんの時代、許劭きょしょうという人物が毎月1日に開いていた人物評論会が「月旦評」と呼ばれたことに由来した言葉です。
許劭の影響力は絶大で、褒められた人は必ず出世し、そうでない人は没落していったと言われています。

許劭は『三国志』にも登場し、曹操そうそうのことを「治世の能臣、乱世の奸雄かんゆう」(世の中が平和な時は有能や役人だが、乱れた世の中ではずる賢い英雄になるだろう)と評価しています。
その後、曹操はその言葉通りに、乱れた世の中で様々な手段を使って力をつけていき、ついにはの国を建国するという偉業を成し遂げた英雄となりました。

白眼視(白い目で見る)

白眼視はくがんし」とは、冷たい目で見ること、また冷たくあしらうこと。「白い目で見る」という言い方もします。

魏の国に阮籍げんせきという哲学者がいました。汚れた俗世間を嫌い、酒と哲学談議に明け暮れる生活を送っていたそうです。
そんな阮籍には、目を青くしたり白くしたりする特技がありました。形ばかりの礼儀を重んじるような、気に入らない人間には白い眼を見せて追い払い、お土産を持って訪ねてくるようなお気に入りの人物には青い目を見せて歓迎したそうです。
そこから、気に入らない人物を冷遇すること、軽蔑することを「白眼視」というようになりました。
ただ、阮籍本人は他人の過ちを責めるようなことはしない、とても慎重な人物だったそうです。

七歩の才

七歩の才しちほのさい」とは、7歩歩くあいだに詩を作れるほど作詩の才能があるいうこと。詩だけでなく文才があるという意味でも使われます。

「七歩の才」の元になったのは、曹操の息子の曹植そうしょく。兄の曹丕そうひとともに優れた武将でもありましたが、父の跡を継いだ兄にその才能を妬まれてもいました。
そしてある時、曹丕は曹植に「今から7歩歩くうちに詩を作れ、できなければお前を処刑する」と無理難題をふっかけます。
しかし、曹植はすぐに

「豆を煮てスープを作り、味噌をこして味付けする
豆がら(豆を取った後の茎などのこと)は釜の下で燃え、豆は釜の中で泣く
元々は同じ根から生まれたものだというのに、どうして豆がらはそんなに激しく燃えて豆を煮るのだろうか」

という意味の詩を作りました。
自分を豆、曹丕を豆がらに例えて、自分をいじめる兄を批判したわけですが、これにはさすがに曹丕も自分の言ったことが恥ずかしくなり、処刑を取りやめたそうです。

この話から、兄弟や仲間同士がお互いに傷つけあう事を意味する「豆を煮るに豆がらをたく」という言葉も生まれました。
ただ、この話は古代の逸話集にある話で、どうやら本当の話ではなさそうです。

破竹の勢い

破竹の勢いはちくのいきおい」とは、猛烈な勢い、止めることができないくらいの勢いのこと。
竹は固く割れにくいのですが、刃物で最初の一節を割ってしまえば、あとは一気に一直線に割れていくという性質があります。その竹が割れる様子を、物事が一気に進んでいく様子に例えたことばです。

この言葉の語源となったのは、しん(魏が司馬しば一族に乗っ取られた形でできた国)の武将、杜預とよの言葉。
杜預は皇帝の司馬炎しばえんが長年温めていた攻略の計画を実行するため、軍を率いて呉に進撃します。
作戦は上手くいき、軍はどんどん攻め上がって行きます。いくらなんでも上手くいきすぎだと、軍の進行スピードをゆるめるよう忠告する人もいましたが、杜預は「今のわが軍には、竹が割れるような勢いがある。この勢いに乗ってさらに軍を進めるべきだ」と言い、そのままの勢いで軍を進めました。
彼の言う通り、勢いのついた軍はあっという間に呉の本拠地である建業けんぎょうにまでたどりつき、呉を降伏させることに成功したのでした。

洛陽の紙価を高める

洛陽の紙価を高めるらくようのしかをたかめる」とは、著書の評判がよく、売れ行きがいいことを言います。つまり、ある本がベストセラーになったりしたときに使う言葉です。「洛陽の紙価を高からしむ」「洛陽の紙価貴し」などの言い方もあります。

三国時代が終わって少し経った頃、晋の首都の洛陽で、文学者の左思さしが『三都賦さんとのふ』という魏・呉・しょくの都を題材とした本を出版しました。これが大好評となり、人々が争って『三都賦』を書き写そうとしたため、紙が飛ぶように売れ、その結果洛陽での紙の値段が高くなってしまったそうです。
当時、紙はまだ上流階級を中心に使われる高価で貴重なものだったので、消費量が一気に増えれば一時的に値段が上がることもあったでしょう。