【いつか使える】三国志から生まれたことわざ・故事成語5選【第2弾・諸葛亮スペシャル】

2020年10月21日

前回に引き続き、今回も『三国志』から生まれた、また有名になった故事成語やことわざを紹介します。
今回は『三国志』後半の主役ともいえるしょくの参謀、諸葛亮しょかつりょう諸葛孔明しょかつこうめいに関する言葉を5つ集めました。

三国志から生まれたことわざ・故事成語シリーズ

第1弾 / 第2弾(この記事) / 第3弾

三顧の礼

三顧の礼さんこのれい」とは、「優れた人材を招くために礼儀を尽くすこと」、また「目上の人が、目下の人を見込んで特別に優遇すること」のたとえです。三顧とは3回訪ねるという意味。

劉備りゅうび劉表りゅうひょうの下にいた頃、徐庶じょしょという人物から諸葛亮のことを聞かされます。どうしても軍のブレーンが欲しかった劉備は、諸葛亮を迎えるために彼の家を訪れましたが、最初の2回は留守のため空振り。3回目でやっと面会し、参謀として迎えることに成功したのでした。

この頃の劉備は40代で、まだ領地を持ってはいないものの世間的に有名になっていた頃。対する諸葛亮はまだ20代で、しかもどこにも仕えていなかったので無名でした。
当時の社会通念で言えば明らかに諸葛亮が目下でしたが、それにも関わらず劉備は「三顧の礼」という最高の礼儀をもって諸葛亮を迎えたのでした。

水魚の交わり

水魚すいぎょの交わり」とは、水と魚が切っても切り離せない関係であることから、「離れることができないほど親密な関係」のこと。親友だけでなく、夫婦や上司・部下の仲の良さを表す時にも使われる言葉です。

劉備が諸葛亮を迎えてからというもの、彼らの中は日ごとに親密になっていきます。
それを良く思わなかったのが劉備の腹心の家来だった関羽かんう張飛ちょうひ。義兄弟にまでなった自分達を差し置いて、劉備が諸葛亮にあれこれ相談するのが不満で仕方ありません。


そこで、劉備は二人に、
「私にとって孔明(諸葛亮)がいるのは、言ってみれば魚に水があるようなものだから、文句は言わないでくれ」
と説得したのが、「水魚の交わり」という言葉の始まりだと言われています。

ちなみに、「水を得たうお」という、「自分に合った環境を得て活躍する」という意味の言葉がありますが、それもこの話から来ています。

危急存亡の秋

危急存亡の秋ききゅうそんぼうのとき」とは、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているときのこと。

ここでの「秋」は「とき」と読みます。昔の中国では、秋は穀物の収穫どきという一年で最も重要な時期のため、「秋」を「重要な時期」という意味合いでも使っていました。
なお、「危急存亡の時」と書いても間違いではありません。

劉備の死後、諸葛亮がとの戦に出発する前に、劉備の跡継ぎとして蜀の皇帝となった劉禅りゅうぜんに書いた手紙「出師すいしの表」の、最初の方にある文
「今天下三分して、益州疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋なり」
(今、天下は3つの国に分かれ、益州(蜀の国がある地方)は経済が弱り、滅びるかどうかの瀬戸際に立たされています)
から来ている言葉です。

ちなみにこの「出師の表」、戦に出る決意表明だけでなく、自分を登用してくれた劉備への感謝や、その息子劉禅に対する説教やアドバイスなども書かれており、古来から「読んで泣かないやつは忠誠心のないやつだ」と言われるほどの名文とされています。

泣いて馬謖を斬る

泣いて馬謖を斬るないてばしょくをきる」とは、集団全体のルールを守るためには、有能な人物や個人的に好意を抱く人物でも、ルール違反を犯した者は必ず罰しなければならない、という意味の言葉です。

馬謖ばしょくとは、諸葛亮が特に目をかけて可愛がっていた愛弟子。頭の切れる武将で功績もあり、諸葛亮も彼を高く評価していました。

そこで諸葛亮は、魏軍と街亭がいていというところで戦になった時、「山の上ではなく、街道に陣取りなさい」とアドバイスした上で、彼に軍を任せることにしました。
ところが、馬謖はそれを無視して山の上に陣取ってしまいます。高いところに陣取るというのは、遠くまで見える、矢が遠くまで届くなどのメリットがあり、作戦としては間違いではありません。
ただこの山の場合は、水源が少なく水不足になりやすいという問題がありました。そこを魏軍に突かれ、馬謖の軍は惨敗してしまいます。

その後、馬謖は上官に逆らった上に軍を全滅させかねないほどの失敗をした責任を取らされ、処刑されることになりました。彼の処刑を惜しむ声もある中、諸葛亮は泣きながら命令を下したといいます。

死せる孔明、生ける仲達を走らす

死せる孔明、生ける仲達ちゅうたつを走らす」とは、すぐれた人物は、死後も生きている者に大きな影響力を与える事のたとえとして使われる言葉です。
「孔明」は諸葛亮の、「仲達」は魏の軍師である司馬懿しばいあざな(成人した時につける別名)。

蜀と魏の戦いが続く中、両軍は五丈原ごじょうげんという場所でにらみ合いとなります。両軍とも動きがない状況が100日以上続いたある日のこと、諸葛亮が病気で亡くなってしまいます。

司令官を失った蜀軍は撤退を開始。それを聞いた司馬懿は、諸葛亮がいない軍は怖くないとばかりに蜀軍を追いかけて攻撃しようとします。ところが、突然蜀軍が振り返って反撃の構えを取ります。

それを見て司馬懿は、
「諸葛亮が死んだというのは、我々をおびき出すための作戦か!」
と勘違いし、あわてて軍を撤退させたといいます。